行き過ぎた指導

先日、また痛ましい事件が起こった。
中学校の柔道部教官が、態度が悪いという理由で
部員である生徒を暴行し、死亡させたそうだ。
〝指導〟が行き過ぎたらしい。
〝指導〟だって?
へー、〝指導〟ねえ?
ふーん、〝指導〟なんだ?
 
ふ・ざ・け・ん・な。
 
はっきり言う。これは、殺人である。
しかも、もっとも悪質な部類の殺人である。
その悪質さは、幼児を虐待して殺すのと同じであり、
むしろ、「私は仕事を頑張りすぎただけなんだ」と、
罪の主体のすり替えさえ起しかねないという点で、
よりたちが悪いといえる。
 
私は感じる。
殺された幼児、生徒たちが、どのような思いで死んでいったか・・・
なぜこのような仕打ちを受けるのか分からないまま
一方的に殴られ蹴られ、すさまじい恐怖と不安につつまれながら
死んでいったであろう幼児たち。
そして、
明らかに異常な怒りにとらわれた指導者が、
そう、精神錯乱の恍惚の指導者が、
理不尽で一方的な暴力をふるってくる。
なにが起こったのかもよくわからないまま、
消えゆく意識の中、
なぜ? と自問しつつ死んでいったであろう生徒たち。
彼らの受けた苦痛。悲しみ。孤独。
どこか違いがあるというのか?
 
権威を振りかざすことを容認された強者が、
指導を受けるべき義務を強要された無力で未経験な弱者を
矯正するという構図。
そこで利用される大義名分は〝指導〟あるいは〝しつけ〟。
矯正の方法は、
各指導者の判断にゆだねられる。
暴力も行き過ぎなければ可である。
時に、行き過ぎが生じ、不幸な事件となっても、
悪気があったわけじゃないから、で済まされると思っている。
彼は悪くない、と弁護する人間が現れたりする。
 
救われない。
 
これと同じ構図が、大人の社会でも存在している。
過労死しかり、仕事を苦にしての自☆殺しかりである。
この場合、被告となるのは国、あるいは会社・法人、
さらに上司、経営者らであろうか。
おそらく彼らには、全く罪の意識はないであろう。
が、明らかに彼らが弱者を追い込んで殺したのだ。
部下・社員を、
自分が使いやすい人間に変えるように、
会社の役に立つ人間に矯正しようと、
精神的に追い詰め、殺したのだ。
彼らに、ふさわしい罰を与え、
目を覚まさせてやらない限り、
この病理が消え去ることはないだろう。