根強いタブー

私は自分の気持ち・想いを大切にすること、そしてそれを伝えることをモットーとしている。数日前、同じ会社に勤める、同じ大学出身者で集まり、昇格者を祝い、かつ近況報告をするという飲み会があったときも、その信条通りの言動を私はとった。
近況報告の席にて、みなさんの語る言葉は、押しなべて優等生的であった。曰く、今、大変な職場に配属されているのだが、やりがいがあるので頑張る、であるとか、いまこんなプロジェクトを担当しており、このプロジェクトの成功に向けて一生懸命やりたいであるとか。みな、現状は、忙しいながらも、やりがいに満ちており、未来は希望に溢れている、そんな風であった。さて、私はなんと言ったか。「今、配属されている職場は、ずっと忙しく、職場仲間でローテーションを組んで、週一回しか休めない状況が続いている。今度は、土日が休め、毎日夕方6時に帰ることのできる職場を提供していただきたい」私は困った奴である。変わったやっちゃなー、と、首をかしげる人が散見された。私の評判がこれで確定したと思われる。前回の同様の集まりの席でも、会社の姿勢について部長に文句を言ったような気がするし、私に出世はなかろう。会社は有望な人材をひとり失った。
このことに関連して言えば、間違いなく、本の一冊でも書けるくらい、言いたいことはあるのだが、ここでは触れない。ただ、今回の件で強く感じたのは、「こんなに働きたくない」と、表明することへの根強いタブーである。「働くのはいやだ」というのは日本人としては許されないことなのだ。働かざるものは食ってはいけないのだ。私が意図しているところは、あまりにも過剰な労働条件は甘受できないということであり、労働時間をある一定のラインで保証してもらえれば、その範囲の中で、全力を尽くして働くだけの用意はある。現に今も、不満ながらも一生懸命働いている。ところが実情は、会社は社員を奴隷とみなしているので、時代の要求なので仕方がないと、社員をどこまでも働かせる。みんなが働かないと会社がつぶれる、というわけである。そこに全く際限は無い。(最近の労基署のしめつけで少しは改善されようはしているが)会社が先か、社員が先かという問題に足を突っ込むと止まらないので、これもここでは触れないが、いつまでこのような状況が続くのか、私には希望の未来が描けない。私の反抗は、この社会通念への拒否であり、次世代にこのような負の遺産を垂れ流したくないがための、小さな巻き返しの第一歩なのである。
「こんなに働きたくない」と、みなが表明できないのは、自分の気持ちに向き合っていないからだ。社会通念・常識・模範・こうあるべき、という視点でしか、世界を見ることが出来ないからだ。みんな、目を覚ましてもらいたい。こんな世の中でホントにいいの?