大学時代のクラブ活動の思い出

昔の恥をさらすようだが、私は大学時代、クラブ活動でダンスをしていた。どんなダンスかというと、ずばり、社交ダンスだ。いや、実は社交ダンスとは呼びたくない。競技ダンスだ。クラブの名前も、正式名称は○○大学競技ダンス部だった。が、やってる内容を、一般の人に説明しようと思ったら、社交ダンスという方が分かりやすい。ワルツとかタンゴとかルンバとか言うと、誰しもどこかで聞いたことがあるだろう。映画『Shall we dance?』とか、ウっちゃんナンチャンがテレビでやってるやつだ。(実は、競技としての社交ダンスは、非常にハードなのだ)
大学1年ではじめて、4年生の冬まで正味やった。運命的なのは、大学1年のとき、4年生の先輩にO先輩という人がいたこと。その人はなんと全日本学生二位の人であった。もちろん関西ではぶっちぎりのNo.1。関西の試合では、審査員全員が4種目全部1位を入れるという圧倒的強さを誇る人だった。(ちなみに4種目とはワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップの4つで、これらをモダンと呼ぶ。ルンバ、チャチャチャ、サンバなどはラテンと呼ぶ)
私はその人にあこがれた。毎日のように、その人の試合の模様をビデオで見た。見るビデオは決まっていた。それはO先輩が3年生の時の秋の試合で、4種目全部審査員全員1位の完全優勝を成し遂げた試合だった。毎日そのビデオを見ているうちに、いつしか私は、自分が、O先輩と同じように、関西でぶっちぎり1位となるであろうことを疑わなくなった。私の中では、そうなるのは当然のこととなっていった。世界はその方向に進んでいて、よほどのことがない限り、予定通りそうなるだろうと感じるようになった。それ以外の未来は想像だにできなかった。
そして、予定通り、4年生の春に、私はそうなった。ワルツとスローの2種目にエントリーし、2種目とも、7人の審査員が全員1位を私に入れた。観衆の前で、順位の読み上げ役が審査結果をアナウンスする。「(ゼッケン)390番、1位、1位、1位、1位、1位、1位、1位」それを聞きながら、勝ち誇った笑みを浮かべ一礼する。私がぶっちぎりの関西No.1になった瞬間だった。かつてあこがれたO先輩と同じように。
しかし、その後私は凋落する。満を持して望んだ夏の全日本戦では8位。秋には、関西No.1の座すら奪われる。どこでどう歯車が狂ったのか? 煩悶の日日が続いた。(※)
そして最後の試合。その日は朝から絶不調であった。すべての歯車がかみ合っていない感じ。やることなすことから回りする感じ。俺はなんでこんなに苦しみながらダンスなどやっているのだろう? 2次予選のタンゴを踊り終わったとき、その思いがピークに達する。そして・・・
その時、私は覚醒した。「ああ、そうだったんだ。俺は、俺の実力以上の力を出して、勝とう勝とうとしている。勝つということにずっと縛られ続けてきた。だが、そんなこと、どうだっていいじゃないか。勝った負けたがなんだ。それより、お前はこの4年間やってきたダンスが好きなんだろ。じゃあ、楽しくやろうよ。別に負けたっていいじゃん。お前が4年間やってきたことを、ありのまま、みんなに披露してやろうぜ」
その2次予選のタンゴでは、実は私は予選落ちしそうだったのだが(5チェック/審査員7人)、その後は1チェックも落とさず、決勝へコマを進める。そして決勝。泣いても笑ってもこれが私の最後のダンスだ。結果は気にしない。現時点の自分のベストを尽くす。そして、私は踊った。それは悔いの残らない、4年間の思いが詰まったラストダンスであった。結果は、ワルツ1位、タンゴ1位、スローフォックストロット2位、クイックステップ2位。私に秋シーズン、辛酸をなめさせ続けた宿敵が、2位2位1位1位。総合で、ヤツが上回り、私は結局2位であった。私のダンス生活は、有終の美を飾ることが出来ず、終わった。が、全く悔しくはなかった。むしろ成し遂げた満足感に満たされていた。
あの、覚醒したときの気分、感覚は今でも覚えている。イチローがセカンドゴロを打って凡退したとき、自分の中で何かが変わった、といっていたが、あれと同じような感覚でないかと思う(次元が違うか?)。その記憶。私の忘れられない思い出である。
(※)(ちなみに、今分析するに、私は結局、全日本には興味がなかったのだと思う。関西で、O先輩と同じように全審査員1位を獲得することが私の最大の目標だったのだ。つまり私は、最大の目標を達成してしまっていたのであって、いわば抜け殻のような状態だったのだ)