「人はいつおっちゃんになるか」

暑い夏。あなたは、「海」派ですか、それとも「山」派ですか?
先日FMでこんな特集をしていた。
それを聞いた私は即答した。
そんなの「山」に決まってるじゃん!
だってイメージしてみてよ。
木漏れ日差す山道を散歩しているところを。
さわやかな風が吹き、まぶしいくらいの緑がきらめく。
大地の香り・・・
どこからか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
エーテルを注入し、心と体が再生していくようだ。
(注:エーテル・・・映画「リリィ・シュシュのすべて」より)

それに比べて、
「海」は暑い。
人が一杯で焼け付く砂浜。
海の魅力を支えるもの。それは水着の女の子の存在だけ。
もし、水着の女の子がいなかったとしたら、
海は不毛の灼熱地獄に過ぎない。

ところで、そのFMでは、(注:福山雅治のトーキングFM)
「海」を選ぶのが若者、
「山」を選ぶのはおっちゃん、と
結論付けていた。
結論にいたるトークは、それはそれなりに面白かったのだが、(さすが福山雅治
私には少し心外であった。

今日、思い出して、その話をしたとき、
「山を選んだ俺はおっちゃんなんかー」
と言ったのだが、この言葉を発した前提として、
全然おっちゃんじゃない俺がおっちゃんだなんておかしいよなー、という
認識があった。そしてこの認識を皆、当然共有しているものと・・・。
ところが、言ったあとすぐ気付いた。
「ひょっとして、そう思っているのは、俺だけ・・・?」
「俺って、立派なおっちゃん・・・?」
そう。そうなんだ。
俺は36歳なんだ。
36歳っていうのは、世間様に言わせれば、完全無欠のおっちゃんなんだ。
俺のことを子どもは「おじさん」と呼ぶんだ。
時の流れは確実に俺をおっちゃんに変えていたんだ。
その厳然たる事実に気づいてしまったのである。

しかし、自分の中ではどうだ。
自分という存在と、おっちゃんという存在とには大きな乖離がある。
まるで交わらない。二つの異質な存在としてしか捉えられない。
そして、思った。
ひょっとして、みんなそうなのだろうか?
100人が100人、この人はおっちゃんだと認める人がいたとして、
その人でさえも自分を「おっちゃん」として認識していないのではないか。

振り返ってみると、私にとって、10歳くらい年上の人が
常におっちゃんだった気がする。
私が25歳の頃、35歳くらいの人のことをおっちゃんとして認識していたし、
35歳になった今、45歳くらいの人をおっちゃんと認識している。
そうか、わかった。
「おっちゃん」とは10歳以上年上の人のことを指す言葉なんだ。
つまり、
「人はいつおっちゃんになるか」
その問いの答えは、
「10歳になったら、人はおっちゃんになる」
である。
可能性として、
1歳の子どもが、11歳の小学5年生をおっちゃんと認識することはありうるし、
80歳のじいさんが、90歳のじいさんをおっちゃんと認識することもありうる、
のだ。
そう、10歳でおっちゃんなのだから、
おっちゃんであることに、なんらマイナスイメージを持つことはないんだ。
長くなってしまったが、これが本日の結論である。

しかし・・・・
とはいえ、納得できない。
他人はどうあれ、私は「おっちゃん」ではない。