2004年、7月、北海道旅行の思い出

「おじいちゃん、どうしたの、こんなとこに呼び出して」
こう言ったのは、10歳になったばかりの、父親譲りのりりしい顔をした少年だ。彼が声をかけたのは、もう還暦を過ぎているというのに、40代前半にしか見えない、danranと呼ばれる老人だ。時に203×年。
「おう、来たか。お前、10歳になったんだよな。じつはおじいちゃんな、お前に話しておきたいことがあってな」
「なんなの、一体」
いぶかしげに少年が応える。
「お前のお父さんのじゅんが4歳くらいの頃の話だ。三十何年か前になる。その年の夏、仕事の休みが取れて、一週間ほど家族みんなで北海道旅行へ行ってな。そのときの話だ」
おじいちゃんという一人称が似合わぬその老人は、少年の目をみつめ、想いを、遠いかなたへ、三十何光年先の宇宙のかなたに飛ばす。三十何年か前の情景が今でも生きる、そのかなたへ。
「実にすばらしい旅行だった。今、目を閉じても、あのときの光景が鮮明に脳裏に浮かんでくる。今でも北海道の大自然は変わりないが、当時も雄大でな。美瑛のパッチワークの畑の風景、釧路湿原、美幌峠からの眺望など、どれも圧巻だった。おじいちゃんは旅行前から、旅行計画をびっしり決めていてな。この日はここを見に行って、ここで昼飯を食べて、ってほとんどすべて決めていたんだ。ラッキーなことに天気にも恵まれ、ほとんど思い通りの旅行が出来た。宿泊したペンションもすばらしく、すばらしい自然の中、おいしい料理を堪能し、もう何も言うことがなかった。」
「ふーん、よかったじゃん。それで?」
「それは最終日の朝だった。朝といっても、午前3時前に起きたんだけどな。その日は摩周湖の近くのペンションに宿泊していた。そこで、摩周湖に日の出を見に行こうと言うことになった。でも摩周湖霧の摩周湖といわれ、普段は霧に包まれていて、湖すらほとんど見ることが出来ない。でもまあ、ダメもとで早起きしていくことにしたんだ。だが、そのときおじいちゃんには幸運の女神がついていたようだ。いや、そのときだけじゃないな。その旅行を通じて、おじいちゃんには幸運の女神がついていた。なんと、地元っ子しか知らないような、ビューポイントに遭遇して、そこから見ることが出来たんだ。それに、もうすぐ日の出、というときに、一面を覆っていたガスった空気が、急に晴れ上がっていった。幸運の女神無しでこんなことありえるか?
モーゼにでもなったような気分だった。そして朝日が現れる。真っ赤な太陽と摩周湖、そして摩周岳の絶妙の配置。体全体に迫り来る迫力に圧倒された」
老人は目をつぶり、当時に想いをはせ、つぶやくように話しつづける。
「本当にツイてた。最初から最後まで、思い描いていた通り、ことが運んでくれた。最高の旅行だったな、と思い、ペンションへの帰路についた。と、車で走っている途中、コタン温泉という看板が見えた。屈斜路湖という湖の湖畔にある露天の岩風呂でな。雑誌で見て知っていたので、ちょっと寄ってみることにした。といっても、朝5時ごろ。みんな眠そうなので、おじいちゃんだけ見に行くことにしたんだ。そこで会ったんだよ。そこで。誰にか分かるか」
「え、わかんないよ」
「女神さんだよ。その温泉に幸運の女神さんが入っていたんだ。美しかった。その旅行で見た、どの光景よりも、どの風景よりも、その女神さんは美しく見えた。数分前のあの光景での感動はなんだったんだと思ったもんだ。朝もやのガスで白くなった大気のなか、バックに大きな湖がぼんやり見えるなか、そこには、おじいちゃんと女神さんしかいなかった。そして、この地上世界から、その空間だけが切り取られたんじゃないかと錯覚するくらい、静かだった。
その女神さんは人間だった。でもその美しさが、突然現れた幻想的な光景とあいまって、おじいちゃんには本物の女神に見えた。思わず、手で目をこすったよ。幻じゃないかなって。目をこすっても、その女神さんは消えなかった。で、おじいちゃんは思った。女神さん、人間の体を借りて現れてきてくれたんですね。女神さんのおかげですばらしい光景をたくさん見ることが出来ました。ありがとうございます。でもどうして現れたのですか。突然。びっくりするじゃないですか。・・・
ああ、わかりました。そうなんですね。いろんな光景を見て喜んでいる私を見て、嫉妬しちゃったんですね。どの光景よりも、私の方が美しいでしょ、そう言いたくなって、出てきちゃったんですね。女神さん。わかってますよ。あなたのほうがどんな風景よりもきれいですよ。」
老人は、ふける想いから覚醒したように目を開き、少年を見つめ、微笑む。
「だから、お前に言いたいのは、いいもの、美しいものをたくさん見、喜び、感動しろよってことだ。そうすると、女神さんが嫉妬してお前のまえに現れてくれる。女神さんはどこにでもいる。そして女神さんは、この世のどんな風景・絵画・芸術よりも美しい。そういうことじゃ」
まだ少年にこの言葉の意味は分からない。だか、時を越えて、いつか、少年の心の中で・・・
(完)
俺ってバカ? でも、思い出って美しいね。