ファッション考

服は体で着るにあらず、心で着るものだ。と、最近思うようになった。どういうことかというと、例えば地方の女の子が、大学入学と同時に都会に出てきて、きれいになった、磨かれたとかよく言われる。これはすなわち服のセンスがよくなっただとか化粧の技術が上達したということなのだが、肝心なのはその結果として、本人が、自分はきれいになった、磨かれたのだと了解した、すなわち自覚したということが重要なのだ。これなしでは、いかなるカッコをしたとしても、本当の意味でしっくりとこない。馬子にも衣装という旧いことわざを確認する格好の実例としてしか、周囲からは認められないであろう。(それでももともとカッコいい、かわいいひとは似合うであろうが、しっくりとはこないであろう)
さて、私、danran、36歳。高校を卒業して大阪へ出てきて18年経つ。その間ずっと大阪にいたわけではないが、つい最近、先に例を引いた女の子のように、自分のセンスが磨かれたと自覚するに到った。なぜ、その自覚が生まれたかというと、ちょっと気取った服をきても恥ずかしくなくなったのがその理由である。おかげで、ちょっと気取った服を着るのが快感となってしまった。逆に着ていないと落ち着かなくなってしまった。
客観的にどうかは分からないが、私は以前より、カッコよくなっているのではないかと思う。だがここでハタと気付くことがある。それは、以前の私も、今の私と同様、カッコつけたいと思っていたことに変わりはなかった、カッコつけたいという気持ちの強度に差異は全くなかった、ということである。にもかかわらず、そのカッコよさには以前と今とでは明らかに差があるように思われる。このことから次のように一般論を展開できる。すなわち、だっさー、と思う人がいても、彼は彼の心の許す範囲内で最高にカッコいい格好をしているつもりなのだと言うことだ。客観的にどう見えるかは問題でなく、である。そもそもあえてカッコ悪いと本人が思う格好を好んでするひとが果たしているだろうか。
このことから、「もっとカッコつけたほうがいいんじゃない」といった類のアドバイスの残酷性に気付く。彼は今の彼ができる精一杯のカッコをつけているのであり、これ以上カッコつけることは不可能なのである。実はこのアドバイスを発している人も、心の底ではそのことに気づいており、できるわけないという了解のもと、この言葉を発しているのである。そこに蔑みの心があることは否定できない。本当に彼のことを思うなら、別の表現を採用しなければならないだろう。しかし、どう言うべきであろうか。今の私には分からない。きっと言葉でなく、かっこいい服を着ることに慣れること。最初は似合わないだろうが、いつかしっくりくる日が来るまで着続けること。これしかないであろう。また、彼は、一人では、どんな服がかっこいいのかわからないはずであるので、よきアドバイザーに導かれる必要もあるであろう。
はて、私は何を言いたかったのだろうか。分からなくなってしまった。かつて私が、「もっとカッコつけたほうがいいんじゃない」と言われたことに対する復讐だったのであろうか?