教師の暴力について

先日、お昼のニュースを見ながら、職場のみんなで食事しているときに、今年の夏の甲子園で優勝した駒大苫小牧の教師である野球部部長が、生徒である部員に暴力をふるったため、優勝報告会がキャンセルになるなど騒動となっている、との報道があり、それを見ていた職場の一人が、「暴力をふるわれたくらいで、訴えますかね。どうせ親が訴えたんだろうけど、そんな親にはなりたくないですよね」なんて言うので、「訴える。訴える。俺は絶対そんな親になるよ」と言ったのだが、同調してくれる人が一人もいなかったということがあった。このとき、皆がどう思っていたのか想像してみると、生徒指導で暴力をふるったくらい大したことないじゃないか。いちいちそんなことで学校に苦情を訴えるなんて過保護過ぎだ。そんな親がいるから学校の先生たちにいらないプレッシャーがかかり、学校教育がうまくいかないんだ。であるとか、あるいは、全く無関心で、そんなことどっちでもいいじゃないか。興味ないよ、であるとか。彼らの中に生じた思いは、おそらくそんなところではなかったかと思われる。そこで、先のコメントを発した職場仲間に対し、いくらか私の考えを思いつくまま、その場で伝えたのだが、その後いろいろ考えていくうちに、この問題がいかに難しい問題であるのかを改めて認識した。以下に書くのは、最近数日間、この問題に対して私が考察した成果である。もしこれを読んでご意見があれば教えていただきたい。この問題について、もう少し考えを深めたいと思っている。(この問題について書かれた、わかりやすい(ここ重要)参考書籍はないものか?)(私は暴力行使を否定したい立場であるので、それを立証するために書いたようなものである。よって、公平さを欠いた議論となっているかも知れないが、その点も、気付いた点があれば、ご教授願いたい)
 
まず最初に、何を検討するかを明確にしたい。「学校という教育の場で、教師が生徒に対して行使する暴力という手段が、肯定されるかどうか」である。これを考える。
現代社会において、暴力の行使を認められた個人、あるいは団体が果たして存在するであろうか。これは明らかにNOであり、そのような個人・団体は存在しない。すなわち、教師が、個人として、あるいはある団体の一員として、暴力を行使することは認められないということである。だが、暴力行使を認められる存在がひとつだけある。それは、国家(権力)である。例えば、犯罪が発生すると、われわれは当然警察が行動すること、その犯人がつかまり、ふさわしい罰が与えられることを期待するし、承認する。つまり、国家は国民によって暴力の行使を承認されているといえよう。学校教育の場で教師が行使する暴力が、これと同じだということができれば、これを国民が期待する国家システムの一部として承認することができるだろう。確かに教師は公務員であるから、国家機構のひとつと考えることはできるだろう。だが、警察と違って、これを承認する法律はどこにも存在しない。よって、教師が、国家権力という後ろ盾をもってして、暴力を行使することは認められないということになる。
しかしながら、実際問題として、暴力は、子どもを矯正するのに、有効な手段ではないかという意見もあるであろう。子ども時代、暴力をふるわれたというひとの成長を追ってみると、なんら障害(いろんなレベルがあるが)を起こしていないひとが大多数である、などということもあるだろう。それは認めよう。だが、次に述べる点で、私はやはり、暴力には反対である。
1、暴力をふるう境界線設定の困難性
そもそも、教師は子どもをいかなるときに叱り、そしていかなるときに殴ればよいか、分かっているのだろうか。分かるも何も、これは正解のない問いである。私自身、親になってからというもの、子どもと直面し、子どもの行動・言動に対してどこまでほめたり、怒ったりすればよいものかさっぱり分からない。いろいろ本を読んだし、考えもして、私の意見を述べることは出来るが、それでも私が正しいと言えるわけではない。教師も全く同様であろう。その基準を設定しようがないのである。
2、教師の資質の問題
境界線の設定が困難なので、殴るという行為は、各人の判断に完全に依存することになる。このとき、先生によっては、ある一般常識の限度を超えた暴力をふるうような人がいる可能性を否定できない。これは非常に危険だといえ、犯罪・事故防止の観点からも規制すべきであるといえる。
3、そもそも本当に効果があるのか
暴力によって、生徒が変わった、ということがあるにせよ、もしそういう場合があったとしたら、それは、暴力を否定する先生が、本当にやむにやまれず生徒に暴力をふるい、その行為に先生の真剣な心を見た生徒が、こころを入れ替えるという図式であって、年がら年中暴力をふるうような先生に殴られた生徒が、それが故に改心するとはとても思えない。
4、権威についての危険な世界観
年がら年中暴力をふるうような先生に殴られた生徒が感じるのは、特権を持つものは、持たざるものを支配し、思い通り扱うことが出来るという、およそ生徒に教えたくない世界観なのではないか。
5、品行を正すための暴力
暴力が行使されるのは、生徒の素行が悪いので、それを、i、やめさせるために、鄱、罰を与えるために、行われるといえる。ここで、やめさせるというのは、その場で止めさせるだけでなく、むしろその後もやめて欲しい、素行を直して欲しいということを期待している。これは、道徳だとか風紀だとかを教えたいということだと思うのだが、果たしてこれを教えるのに、暴力を使用して良いものか? 道徳、風紀という観念は、暴力という行為を否定しているのではないだろうか。こんな道理が成り立つ訳がなく、暴力は暴力を肯定し、暴力は暴力を生むのである。(暴力が暴力を生むというのは、図らずもその暴力教師が、その連鎖の存在を証明している。おそらく彼も、彼が生徒に対して今していることを、かつてされたと思って間違いないのではないか)
6、罪としての暴力
悪事に対する罰は与えられなければならないだろう。社会は断固、それを許さないということを教えるために。ただ、それが適正な手続きを持って、適正な判断の元に行われるということも教えなければならないだろう。すなわち、事実関係を確認し、公平な第三者の視点で判断するという、一般に行われる裁判と同じような手続きを踏む必要があると思われる。実情は、即時感情的暴力がほとんどではないか?
7、根性をつけるための暴力
根性と、暴力は全く別物である。暴力をこうむることに耐えることが、根性なのであろうか。根性とはそんな狭い概念なのであろうか。幅広いステージで発揮されることを期待される根性という資質を、暴力をこうむるという屈辱的経験が生み出すとはとても思えないのである。
8、「暴力を受けたこともない子どもが大人になって大丈夫か」
という主張について。これは論点のすり替えである。つまり、議論のレベルを「経験が有益かどうか」というレベルに置き換えているのである。この主張は「暴力という経験が有益か」ということを問うているのであり、「海外旅行に行くことは有益か?」といった類の質問と同じ次元の問題である。
9、暴力が有効であるとき
暴力は悪なのだ。まずそれがあって、それでも現実には暴力は、この世に存在している。不条理な暴力が行使されている。個人レベルでも、企業・国家レベルでも好むと好まざると。ということを知り、暴力を憎むきっかけとして作用するなら、結果論的に、その暴力は有効であったといえるかもしれない。
10、大人の世界にたとえて言えば
先生と生徒という関係をとっぱらって、大人と大人の関係で同様の行為が行われた状況を想定してみよう。例えば私は36歳で、私の父は65歳であるが、もし私の父が私の行動に対して不満をもち、暴力をふるってきたとしよう。その場合、父の主張が客観的に正しく思われたとしても、私は素直に受け入れられないだろう、少なくとも行われた暴力に関しては非難するであろう。さらに、私が会社の上司に、仕事振りが悪い、仕事の態度が悪いといって暴力をふるわれたとするなら、どうであろうか。説明不要であろう。そんな暴力が認められるはずがないのである。
 
さて、以上、長々と、「学校という教育の場で、教師が生徒に対して行使する暴力という手段が、肯定されるかどうか」という問いに対して、私の見解を述べた。先にも述べたとおり、ご意見をお待ちしたい。
私が危惧しているのは、「子どもには、成長の過程で、暴力をふるわれてもよい存在である」という認識が日本に厳然として存在しており、この認識がある限り、生徒指導という名の暴力が悲劇を生みつづけるであろう、ということである。不幸なことに、まじめで使命感を持った先生ほどそうなりやすいのかもしれない。日本人からこの認識を一掃するには、どうしたらよいのだろうか。ああ疲れた。