私の禁句の誓い

父親の役割について思うとき、考えるべきことわざがある。それは、「親は無くとも子は育つ」である。そしてこのことわざは、次の二つの変形バージョンとともに考えると非常に示唆に富む。すなわち、「親が無い方が子は育つ」と、「親があっても子は育つ」である。(なお、この二つの変形バージョンは、私の考案でなく、前者は、開高健氏が著作のどこかで、後者は芹沢俊介氏が、著書『ついていく父親』の中で披露していたと記憶する。)
つまり、親は子どもにとって、時に有害だ、ということ。それを知っておかなければならない。前項で言ったように、現実的に生きていく上での心構え・智慧を授けるという役割、いやもっと根本的なところで、子どもをそのまま受け止める、子どもを家族のエロス(前出、芹沢俊介氏の同著参照、意味はなんとなく伝わると思うのですが)で包んであげる、そういう点で、親は確かに必要だ。だが、子どもを受け止めるという地点から離れ、子どもを矯正する(しつける、教育する)という立場にたって行動を始めると、子どもにとって有害となりえる。のだ。それを常に意識し、子どもをよく観察して、自分が子どもにとってインベーダーとなっていないか、よく省みる必要があると思う。この点、私自身、肝に銘じておきたい。
思えば、私は父に対して(母に対しても)、一つだけものすごく感謝していることがある。それは、ただの一度も、「勉強しなさい」といわれたことがないということだ。ただ単に関心が無かった、それだけかもしれないが、感謝している。だから、私も、子どもたちに、「勉強しなさい」とは決して言うまい、と誓っている。