私にとってのウルトラマン

以前、私の父はウルトラマンだったんだ、そう確信したことがある。何を言っているのかわからないかも知れないが、私が言っているのは、人間形成や社会観形成の上で大きな影響力を発揮した男性を父と呼ぶならば、私にとってそれにふさわしいのはウルトラマンではなかったか、そう思うということである。
ウルトラマンのようになりたい、正義の味方でありたい、という幼児的思い込みが、私の中では強かった。理想高き世間知らずといったところか。だから、中学生の頃、当時は校内暴力が全盛期であり、私の周りにも不良(古い)たちがたくさんいたのだが、私は彼らがなぜこんなに荒れているのかさっぱり理解できず、しばしばその理不尽な言動・行為に反発した。そのたびに彼らは私を殴るのであった。ウルトラマンを殴るとはなんだ、と思ったが、ケンカしても勝てないな、とあきらめてもいた。そして大学生になると、廻りはみんなナンパばかりしていた。これも私の理解を超えていた。私にとって男女関係は、ウルトラセブンのアンヌ隊員とモロボシダンのような関係でないとならなかった。ウルトラマンを父とする私が、ナンパをきっかけとした出会いなど許せるはずがなかった。この頃から、この思い込みが本格的に私を苦しめるようになる。さまざまな場面で、私は自分の世間知らずさに直面し、うろたえ続けることになる。
こうした自分のなかの幼児的傾向を書き換えるために、私は多大な時間を要することとなった。36歳になった今、以前とは比べるべくもなく現実的視点に立ち、幼児性は消滅しつつあるが(誰しも完全に無くなるわけは無い)、本質的には、私は幼児的傾向が強いのではないかと思う。
さて、何が言いたいか。
現実的に生きていく心構え・技術・智慧を伝えるために、父親の存在が必要であるということ。それが言いたかった。いい年こいて、ウルトラマンもないもんだ。幼児的幻想の世界に閉じこもるという体験は有益かもしれないが、それをいつまでも引きずるのは、社会を生きていく上で、本人のためにならない。どこかで行き詰まってしまうのは明らかだ。社会を生き抜くための心構え・智慧を誰かに教えてもらう必要があるのだ。それは、父親ではないかもしれない。友人・先輩であるかもしれないし、教師であるかもしれない。誰でも構わない。彼に伝えることが出来さえすれば。ただ、こう確信している私としては、私の息子にそれを伝えるのは、父親である私だ、と思っている。(娘についてはよくわからない、というかあまり考えていない。考えられない。誰か教えてください)