『子ども問題』芹沢俊介より

(以下、同書P141〜143から引用)
でね、私が手首を切ったすこしあとに、私のとっても大事だった人が、死んじゃったの。
マサル君っていう大学生だったんだけど、酔っぱらい運転のクルマにハネられてね。
その人とあったことで、私の男性観は変わったの。3ヵ月間しか知りあえなかったけど、私に「スキだ」なんていったこともなかったし、1回も手を出さなかった。そんな人はじめてだったから、もうびっくりしちゃったの。「ああ、こういう男の人もいるのか」って、そのとき思ったのね。で、その人のことがだんだんスキになって、「こんな人とつきあえたら、どんなにステキかなあ」って思ってたときに、その矢先に死んじゃったのね。それで(マサル君のお姉さんが=評者)マサル君の形見だっていって、雑記帳みたいなノートをみせてくれたのね。そしたら、そこには私のことがいっぱいかいてあったの。ホントにいっぱい。
それみたとき、「ああ、私は、もう二度と死ねないな」って、思ったの。
もう、死ねない、死なない。
死ぬわけない、って気持ちもあるし。
それにやっぱり、死んでほしくない。もう、だれも。
しばらくカウンセリングなんかも受けて、中学もなんとか卒業して。いまは、昼間、レコード屋でバイトしながら、夜間の定時制高校に通ってるの。
そこからまた、いろんな人と知り合って、いろんな人と話してるうちに、「人っていうのは、これだけいろいろいるんだ!」って、思ったわけ。やっぱりいちばん変わったのは、オトナに対しての概念だったのね。オトナっていうのは、スケベなサラリーマンと、イヤな教師と、あとヤクザね。この3パターンだけじゃないってことがわかったの、そのとき。もっと早くわかってトーゼンなんだけどね。
で、これだけいろんな人がいて、いろんな心をもっていて、いろんなニュアンスでものをいってるんだって思ったときに、そのとき「個を尊重したいな」と思ったの。それは、私も「尊重されたい」っていうことの裏返しでもあるし。だからね、理解できなくてもいいから、とにかくそれを、いろんな「個」を認めることが最低ラインだと思ったの。
それでその「個」っていうのは、なんていうのかな・・・やっぱり「いのち」であるわけじゃない?
その「いのち」や「個」っていうものを考えたときにね、やっぱりどんなにツラクても、どんなに苦しくても、その「個」の生き方っていうのがあるんだから・・・、だから、私は私のね、「極道」として生きていくわけ。私、「葉山リカ」っていう道を極めたいと思うの。
(葉山リカ − 十六歳 − のコトバ)
(引用、終わり)
これから時々、気に入った文を、本から引用してみたいと思う。