「なぜ人を殺してはいけないか」について一考

人が人を殺すには、理由がある。例えば、子どもが泣きやまなくてうるさいから殺すだとか、保険金がほしいから殺すだとか、一度人を殺すという経験をしてみたくなったから殺すだとか。自殺も自分を殺すという意味で殺人であるし、殺さないと殺されるという正当防衛のようなケースだってある。
いろんな理由がある。注意したいのは、正当防衛というケース。こんな状況じゃ、相手を殺してしまったのもしょうがないな、と多くの人に共感してもらえる場合には、殺すという行為はほとんど正当化される。私も同じ状況になったら、殺しちゃったかも知れないな、と皆が納得できるならば。この点で、人は人を殺してもよいのである。本人の生存を脅かす存在を排除するという目的でならば。その強度が強ければ強いほど、人を殺すと言う行為は肯定される。刑事裁判でも情状酌量の対象となる。
さて、前出したその他の理由についてはどうか。子どもが泣きやまなくてうるさい、保険金がほしい、一度殺してみたいについてはどうか。あまり他人の共感を得られそうにない。刑事裁判でも情状酌量してくれないだろう。では、彼らはいけないことをしたのであろうか。子どもがうるさかったら、我慢しなければならなかったのだろうか。保険金を我慢しなければならなかったのだろうか。殺すと言う経験も我慢しなければならなかったか。
ポイントはここにある。「私も同じ立場だったら、同じことをしてしまったかも知れないな」と思われるかどうか。ひとえにここにかかっている。共感を得られればOK、得られなければNGなのである。殺人とはそういうものだ。
さて、同じ立場というものを考えたときに、果たして同じ立場にたつということが本当に出来るだろうか。否である。同じ立場に立つためには同じように生まれ、同じ生活環境で同じ親で同じ学校で同じ先生で同じ友達で・・・育たなければなれない。ひょっとすると、子どもが泣きやまないという状況が、当事者にとっては、恐ろしい脅威だったのかもしれない。我々が殺される、と感じたときに覚える恐怖と同等の脅威を、子どもが泣きやまないという状況から、感受してしまっていたのかもしれないのだ。厳密に同じ立場に立てない我々には、理解しようがない。(同じ立場に、もしたつことが出来たら、いや、立たされたとしたら、我々も同じことをしてしまうかもしれない。いや、私は絶対違う、と果たしてあなたは言い切れるだろうか)そんな我々が、果たして、彼らを責めることが出来るだろうか。
私にはよくわからない。彼らが責められるべきであるのか否か。ただ、言えるのは、罰は受けなければならないと言うことである。人をあやめるということの罰。この罰はやはり、コーランでいうところの、「目には目を、歯には歯を」に従うのが筋であろう。つまり、死刑が相当であろう。
取り留めがなくなった。今日、私が言いたかったのは、「悲しいことだが、場合によって、人が人を殺すのはしょうがない。だがそのときは、相応の罰を受けなければならない」ということだ。
決して殺人を肯定はしないが、いろんなケースを本で読んでそう思うようになった。(殺人を犯した)彼らの悲しい心の遍歴を知るにつれて。だが、遍歴がどうであろうと、犯した罪に相応する罰は受けなければならないと、強く思う。だから、昨今の、殺人犯に対する判決の軽さには、唖然とするし、怒りを覚える。