少年の罪について

『13歳は二度あるか』(吉本隆明著)という本を昨日買って読んだ。買った理由は三つ。ひとつは、吉本隆明の本だったから。私の好きな芹沢俊介氏が吉本隆明氏のことをやけに買っている様なので。(私は吉本隆明氏があまり好きではない。なぜなら、意味不明だから。大学生時代、吉本隆明氏の本を1、2冊読んだが、何が言いたいのか、何を問題としているのかさっぱりわからず、こんなやつ相手にしてられへん、と敬遠するようになった。読んだのはそれ以来のこと。だから、『13歳・・』を買って、著者紹介欄を読むまで、よしもとばなな吉本隆明氏のニ女だということを知らなかったし、吉本隆明は「よしもとりゅうめい」と読むと思っていたのだが、実はそのまま「よしもとたかあき」でよいのだということも知らなかった)
もうひとつの理由は、題名に惹かれたから。『13歳は二度あるか』。なかなかいい。13歳と言う時期がいかに重要か、子どもからオトナへ移行する上で、どれだけ特別な年齢であるか、という著者の意図が、よく伝わってくる。さらに、このコトバは、私が常々思っている年齢観・人生観を、代弁してくれているような気がした。つまり、『13歳は二度あるか』は、『36歳は二度あるか』ともなりうるし、『66歳は二度あるか』ともなりうる。いかなる年齢とも交換可能なコトバとして捉えられそうだ。そのあたりが気に入ったのではなかろうかと思う。
最後の理由。それは、平易な文章だったから。多分、対象年齢が13歳なのであろう。実に読みやすかった。1400円が高すぎると思うに十分、平易であった。そして吉本りゅうめい氏がどんな考え方をしているのかがよくわかった。読み終えて、感想。やはり、吉本隆明氏はあまり好きになれそうにない。どの辺が、私の意に添わないか。次に引用したい。
(以下、同書、P125〜126より引用。/は改行)
(表題)「どんなに厳しく罰しても、少年犯罪はなくならない。」
少年犯罪が社会的な問題として大きく取り上げられることが増えてきました。その中で、法律上「少年」とされる年齢を引き下げたほうがよいという議論がでてきています。/つまり、今までは「少年」であるとして重い罪にならなかったような場合でも、これからは大人と同じように裁いて、少年院などの矯正施設ではなく、刑務所に入れてしまおうという動きです。/僕の意見を言えば、こうした動きには反対です。/逆に、「少年」の範囲を引き上げたほうがいいと思っています。たとえば20歳を過ぎていても、自分で働いて食べていない大学生であれば「少年」として扱ったほうがいいと考えます。/少年だからといって、殺人のような重い罪を犯しても、死刑や無期懲役などの重い罰を与えないのはおかしい−−それが、少年でも厳しく罰せよと考える人の主張でしょう。/しかし、この考えは間違っています。少年が重い罪を犯すのは、本人ではなく大人の責任だからです。/人間というものは、親や、あるいは周囲の大人が、生まれてから一年でいいから、本当に心から可愛がって、大事に育てたなら、他人を殺したりするようには決してなりません。/このことに関しては、僕は絶対的な確信をもっています。(後略)
(引用終わり)
以上の吉本隆明氏の意見に、私は三つの理由で反対したい。
1、「少年が重い罪を犯すのは、本人でなく大人の責任だから」には、全面的に賛成する。その少年が背負った、悲しい宿命に対する、同情の想いに対して共感できる。だが、それでも少年は重い罰を受けなければならない。なぜか。
こう考えてみよう。「20歳」になると「大人の責任でなく、本人の責任になる」のだろうか。「20歳」、「30歳」、「40歳」になれば、彼を育てた大人の責任はなくなるのだろうか。「10代の少年」には認められる「心の傷への情状酌量」は、「20代」「30代」・・・には適用されないのだろうか。「20歳」という時点を越えると、全面的に彼の責任に帰せられるのであろうか。
彼を犯罪に走らせたのが少年時代の大人の対処が悪かった、という理由で罪を軽くするのであれば、その対象は少年だけに限定するわけにはいかなくなる。たとえ「50代」でも、少年時代に受けた心の傷がもとで犯罪に走ったのかも知れない(検証は困難だろう)。この場合、心の傷から解放された時点でもって、「本人の責任」と評価するのが妥当であり、公平であろう。しかし、そんな時点を一般化することが出来るわけがない。
そもそも、犯罪を犯すのには理由がある。たとえば、貧乏な人が、泥棒した。彼も、裕福な家に生まれ育っていれば、泥棒などしなかったであろう。だからと言って、彼の泥棒の罪が軽くなるか? 相応の罰が与えられなければならないのだ。以上のような理由で、たとえ「大人の責任」であったとしても、彼は犯した罪相応の罰を受けなければならないと思う。
2、何度も言うが、「本人の責任でなく、大人の責任」であると、私も思う。だからといって、量刑を軽くするという論理の飛躍が理解できない。相応の罰が与えられるのことが、人間社会において必要だと思う。(これは今はうまく説明できないが、例えばイスラム教のコーランなどはそうであろう)。彼本人の量刑を軽くするのだったら、「大人の責任」というところの、「大人」を特定し、そちらを厳罰に処さなければならないと思う。犯した罪が100あるなら、その責任の所在に、100の罰が与えられる必要があると思うのだ。でないと、われわれは安心して生活することができない。
3、「どんなに厳しく罰しても、少年犯罪はなくならない」にも、全面的に賛成したい。しかし、だから量刑を軽くすべしとはならない。なぜそうなるのか? 少年犯罪を無くすために、厳しい罰が必要なのではない。その理由は先に述べた。犯した罪には、それ相応の罰が与えられる必要があるのだ。
最後に、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の中から、私のこのような思いを作り出した、いや、強固にした一文を紹介して終わりたい。
(以下、引用。引用文献は『仏教に学ぶ老い方・死に方』ひろさちや著。p120〜121)
富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子のあはれげに泣くあり。此の川の早瀬にかけて浮世の波をしのぐに堪えず、露ばかりの命まつ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、こよいや散るらん、あすや萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
 猿をきく人すて子にあきのかぜいかに
いかにぞや、汝、父に悪(にく)まれたるか。母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ。母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性(さが)の拙きを泣け。
(引用終わり)
念のため、ひろさちや氏(この人の本にも私は非常にお世話になっている)の解説も引用しておきます。
(以下、引用。先ほどの続き)
われわれはこれを読んで絶句するばかりです。芭蕉の「冷たさ」を非難するのは簡単ですが、しかし彼があたたかくして、その捨て子を助けることができるでしょうか。
《ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け》−−これがおまえの運命なんだ。その運命の冷酷さを泣け!
芭蕉はそう言うよりほかなかったのです。その捨て子は、きっと仏が救われます。わたしたちはそれを信じるよりほかありません。
(引用終わり)