少年の犯罪について(その2)

(9/19のちゃめさんのコメントに対する回答です。最初はコメント欄に書いていたのですが、長くなったので、本文にのせることにしました)
ちゃめさん、「”思考”し”選択”し”行動”するのは本人である。犯罪に対する罪はその本人の”選択”と”行動”に対して与えられるべきであろう。」ということですね。彼がそう”選択”しなければ、事件はおきないわけですから、その”選択”をしたことに罪がある、ということですね。意思の力、自律の力でその”選択”を変えられたはずだ、と。
それはそうだと思います。そういう行為を”選択”してしまったという点を見るならば、彼に全面的に責任があると思います。ただ、ここで私が言いたいのは、少し違った視点の問題です。彼らが、そういう”選択”をする可能性を有する心的状態にあったという事実を問題としているのです。
どのような遍歴が、彼をして、そのような心的状態に到らしめたのでしょうか。数々の事例が教えるところでは、大体次のようなパターンです。彼らは子どもの頃から親に受け止められず、「透明な存在」であり続けたということ。自分という存在に安心することが出来ない状態(難しくなるし、私もうまく説明する自信がないのでこれ以上は述べません)であり続けた、ということです。この状態を長期間強いられたことが、彼らの心的状態を、先に述べたような危険な状態へと誘導したのであろうということです。
この領域は、我々の想像を越えています。ただ、これだけはいえるのではないでしょうか。彼らが、もしも、子どもの頃から、彼ら自身であることを、親に受け止められていたとしたら、このような”選択”をする余地すらなかったのではないか、ということです。我々と同様に。
だが、彼らはその”選択”をした。私たちには100%ありえない”選択”をしてしまった。その”選択”をする可能性を有する心的状態。そこに追いやった原因は、100%、親にあるのだと思います。彼らは、そうならないために数々のメッセージを送り続けてたはずです。「助けてくれ、このままでは自分を受け入れることができない、自分のこの状態を受け止め、処理することができない」と。だが、この悲痛なメッセージが親の心に届くことはなかったのでしょう。いつでも、絶望的な反応しか帰ってこなかったのでしょう。この蓄積が彼をあのような心的状態に追い詰めたのです。
その点で、「少年が重い罪を犯すのは、本人でなく大人の責任だから」である、と思うわけです。
その心的領域から、実際に事件を起こしてしまった事実については、本人に責任がありますが、それはあくまで二次的なことで、その心的領域に追いやられたところに、問題の本質がある。と、思うのです。