なぜ私が子ども問題にこだわるか

(この文は、最初、3日間にわたって、3回に分けてアップロードしたのですが、非常に読みにくいので、ちょっと長くなりますが、一度にアップロードするよう編集しなおしました)
1、「エス」と「遺伝子」
私たちの心の奥底には、私たちの心を支配する、絶対的な存在がある。フロイドはそれを、エスと名付けた。彼(エス)は自分勝手で抑制が効かず、およそ社会への適応能力に欠けている。
私はこれから、この「エス」について、自論を述べたい。あらかじめいっておくと、荒唐無稽なな絵空事のようなことも述べるつもりだ。検証不可能なため、かなり飛躍した発想もしている。これらは、ただ、私が、「便利で、役に立ちそうな」理解の仕方を求めた結果、生まれた理屈である。笑いながら聞いていただいて結構。ただ、私はなかなか面白い理解の仕方だと思っているのではあるが。
まず、「エス」とは何か。フロイドは「エス」を、本能、衝動、あるいは、無意識などと定義した(ハズだ)。その特徴をいえば、先に述べたとおり、「自分勝手で抑制の効かない、およそ社会への適応能力に欠け」た存在、あるいは状態である。つまり、「利己的」であるといえる。「利己的」というと、思い出す言葉がある。そう、selfish gene(『利己的な遺伝子』)だ。名付けの親は、R.ドーキンス
エス」も利己的、「遺伝子」も利己的。そうなのだ、私は、「エス」イコール「遺伝子」だといいたいのだ。そう考えるとすっと腑に落ちる。「エス」はどうも分かりにくいのだ。私たちの心を支配しているのが「遺伝子」であるとすると、分かりやすい。絶対的存在である「エス」、それは「遺伝子」であるのだ。
2、「エス」={遺伝子」=「子ども」
エス」とは「遺伝子」であり、その特徴は利己的である、と先に述べた。「自分勝手で抑制の効かない、およそ社会への適応能力に欠け」た存在・状態であるとも言った。
さて、それに近い存在が我々の周りにいる。そう、赤ちゃん、幼児だ(以下、赤ちゃん、幼児を総称して、子どもと呼ぶ)。擬人的になるが、「エス」={遺伝子」=「子ども」という等式が成り立つのだ。こう捉えてみると、かなりイメージしやすくなる。我々の心を支配する「遺伝子」について考えるとき、それを「遺伝子」そのものとしてイメージしても、らせん状の形がイメージできるのみで、取り付く島がない。ところが「遺伝子」を「わがままな子ども」とイメージしてみるとどうか。一気に分かりやすくなる。対処の仕方も考えやすくなると言うものだ。
ちなみに、ちゃめさんのブログで、先日、我々の年齢は三十数億歳である、と紹介されていたが、それは遺伝子の年齢が三十数億歳であるということだ。このことから、「遺伝子」とは「三十数億歳のわがままな子ども」であるとみなすことができる。なんかかわいいやつと思えてくる。「遺伝子」とは、まさに、永遠の子どもなのである。
3、ひとりは二人
エス」イコール「わがままな子ども」であると言った。かなり擬人的になるが、私たちは心の奥底に、「わがままな子ども」を飼っているのだ。(飼っているというのは不適切かもしれない。なにせ、その「わがままな子ども」は、絶対的存在であり、我々の心を支配しているのであるから。)
私は、私自身(自我)と、この「わがままな子ども」を切り離して考えたい。私とは違う、別人物として対象化するのだ。
つまり、私という人物を、二人の存在として考えてみたいのだ。「わたし」と「エス」の二人として。
(ややこしいが、「わたし」とはニセの自分、演じている自分であり、「エス」こそが本当の自分(遺伝子、わがままな子ども)なのだと思う。わたしは、自分を、自分ではないニセの存在として、捉えたいと思う。)
4、「わたし」と「エス」とは親子のようなもの
「わたし」は「エス」と調和しながら生きていかなければならない。詳しくは説明しない(できない)が、「エス」をなおざりにしていると、「自我」は「エス」によって崩壊させられるだろう。フロイドさんがそういっている。
だが、「エス」と調和しなさい、といわれても、どうしたらいいかさっぱり分からない。「エス」のままではあまりにイメージしにくいからだ。
だが、我々はもう、「エス」=「わがままな子ども」であると知っている。つまり、「エス」と付き合うためには、「子ども」との付き合い方を勉強すればよいと言うことなのだ。
先に、私が、「わがままな子ども」を自分と切り離して捉えたい、といった理由のひとつがここにある。自分と違う、別個の存在として「エス」を意識すれば、現実世界の延長として、「わたし」と「エス」との関係性をイメージでき、考えやすくなると思うからである。
そのように突き詰めていくと、私と「エス」との関係は、実際の親子の関係に酷似しているということがわかってくる。私が言いたいのはまさにそこだ。自分自身と付き合うとき、親と子どもの関係についての理解が役に立つのだ。現実世界の親子の間で繰り広げられるさまざまな事例を知り、理解すれば、「わたし」と「エス」がうまくやっていくために、大いに参考になると思うのだ。
私が子ども問題にものすごい関心を示している理由もここにある。私は、私の心の奥底に住む「わがままな子ども=エス」について理解したいのだ。そして、「エス」とうまくやっていきたいのだ。もちろん、実際の私の子ども、5歳の息子と4歳の娘を理解するためでもある。だが、正直、私の「エス」を理解したいという思いのほうが強いような気がする。
(「エス」「エス」とわたしが繰り返すので、よほど私が、本能的欲求の衝動が強いのではないか、相当、欲求不満がたまっているのではないか、と心配してくれる方がいるかもしれません。そうとられるのは、私としても恥ずかしいので、そんなことはないですよ、そんなに欲求不満はたまってませんよ、と言っておきます)
5、「エス」と調和する私の手法
繰り返すが、我々は「エス」と調和して生きていかなければならない。その調和こそが、すなわち、私たちの幸福でもあるのだから。
そして、「エス」とは「わがままな子ども」である。では、「子ども」と調和した関係を築く上で、何が一番大切か。この問題は、ひとりひとりみんながそれぞれ結論を出す問題であると思う。ひとりひとり、違っていてよいし、むしろひとりひとりが考えるところに意味があるのだと思う。
私の回答をいっておけば、その子を無条件で受け入れると言うことである。批判しない、評価しないというスタンスで、ただ受け止める。これに尽きる。そして、その子をよく観察し、イメージし、考え続けること。これが、私の現時点での結論だ。
だから、私は、自分自身を見つめ、自分がどう感じるのか、どうしたいのか、何を求めているのか、考えるよう努めている。古来から、瞑想が一部の人たちの間で行われて生きているのも、そこに理由があるのだろう。私は、まだ、瞑想はしていないが(いつかはじめるかもしれない)、私なりに、これからも自分自身について、考え続けていきたいと思っている。
6、他人の理解について
個人を二人の存在として捉えることが、ある場面で非常に有効であると言う事例を、ある本で発見した。長くなるが、以下に引用したい。
(以下、『現代<子ども>暴力論』芹沢俊介著、p9〜11から引用。/は改行)
誕生時に生みの親から捨てられ、施設に収容された男のこの話です。彼は十一ヶ月のとき養子縁組が決まり、養父母は彼にフレデリックという新しい名前をつけました。そのフレデリックが七歳になっても知力障害や便失禁などの精神病的な諸症状を呈しているため、養父母は精神科医に連れて行きました。(中略)すぐに分析治療が功を奏し、間もなく失禁も知力も回復し、学校のクラス仲間にも溶け込めるようになりました。しかし一点だけ問題が残っていました。それはフレデリックが文字を読もうとも書こうともしないことでした。ドルト先生の観察ではしかしかれは文字が書けるように見えました。というのもかれの書く絵の随所に「A」という文字が書き込まれていたからです。彼女はこの「A」が誰か人を指しているのではないかと考えました。事実、養子になる前のフレデリックの名前が「アルマン」だったのです。/ドルト先生はかれに「A」はアルマンの頭文字ではないかと尋ね、そして「あなたは養子にもらわれてきたときに名前が変わったのでつらい思いをしたんでしょうね」と話しかけました。けれどこの解釈の試みはフレデリックに何の結果ももたらしませんでした。そのときドルト先生にあるアイディアがひらめいたのです。かれを見つめずに、彼の名を呼んでみようと思いついたのです。そして顔をあらゆる方向に向けて、天井やテーブルの下などに向かって呼びかけました。「アルマン・・・アルマン・・・」/少年はその声のする方向にじっと聞き耳を立てていました。やがて二人の視線が出会いました。そこで彼女は言ったのです。「アルマン、あなたが養子になる前の名前はアルマンでしょ」。このときかれのまなざしがきらりと強く光りました。(中略)この子は自分の名(を呼ぶ声)を聞く必要があった。しかしそれは彼が知っているいつもの私の声ではないし、彼の体に直接語りかける私の声でもない。(中略)なにげなく彼を呼ぶどこからとも知れない裏声であり、最近の言い回しでいえば、「オフ」の声(画面外から聞こえてくる声)であり、これこそが彼の求めていたものだ。(中略)こうして少年は、二週間後に、読み書きの出来ない状態から抜け出せたのである。
(以上、引用終わり)
この事例でいう、「オフ」の声を聞いたのは、私がいうところの、「わがままな子どもである私」すなわち「エス」だ。どこからともなく聞こえてくる声に、「わがままな子どもである私」、「エス」が反応したのだ。ドルト先生は偶然思いついたのだが、フレデリックの中に、もう一人別人がいると理解していれば、偶然でなく、必然的に「フレデリックの中のもうひとり」に話しかけるという方法が思いついたのではないだろうか。
7、まとめ
思いつきで、好き勝手なことを書いてきた。読み返してみて、分かったようなことを書いて、悦に入っている自分の姿をまざまざと見せ付けられるようで、少し恥ずかしい。
最初に遺伝子が出てきて、そのあと出てこないのは、「エス」=「遺伝子」を言うためだけに「遺伝子」を登場させたと言うことを示している。
自分の中のもうひとりを「エス」と呼んだのが、どうだったか。別のふさわしい表現があったと思うのだが、書いている間も、現時点でも思いつかないので、このままにしておこう。
最後に、私が言いたかったことが何か、まとめてみる。
私は、自分がどう感じているのか、どうしたいのか、何を求めているのか、を知りたいと思っていて(自分を知るということがどういうことなのか、理解したいと思っていて)、そのためには、親子の問題について理解することが大きな助けになると感じている。なぜなら、自分を知るということは、すなわち親が子を知るということと同じではないか、同じとまで言わなくとも、共通性が非常に強いように思われる。私が、親子問題、子ども問題に関する本をやたら読みまくったり、ニュースで子どもに関する事件などがあると、非常な関心を示すのは、そういったところに理由があるのである、ということです。
ここまで、読んでくれたひと。よく付き合ってもらえました。ありがとうございます。記念にコメントよろしくね。