祖父の死

平成17年12月16日の夜、祖父が永眠した。享年97歳であった。
死の直前まで元気だったらしいのだが、最近突然寒くなったので、老体がついていかなかったのだろう。
かなりの高齢だが、下の世話など全く受けず、自分で食事の用意から片づけまで全てやっていたらしい。老人ホームなど全く無縁であった。
老人らしく、よくこけたらしいのだが、決して骨が折れることはなかったという。火葬場から出てきた骨を見て、火葬場の方も立派な骨だといっていた。さわるとぼろぼろになりやすい部分の骨でさえ、硬くて崩れないので、すごいと言っていた。
働いている間、毎日片道40分かけて自転車で通勤していたらしいので、体が丈夫なのはそのおかげじゃないか、と父が言っていた。
85歳のとき、体に悪いからと、60年くらい(?)吸い続けてきたタバコをやめたのに驚かされたことがある。その年になってやめても意味無いじゃん、と思ったのだが、おかげで肺がんで苦しみながら死ななくてすんだ。じいちゃんが正解だった。
告別式が終わり、出棺のとき、私のいとこ(女性)が、泣き崩れていた。しばらく家族同然に暮らしていた期間があり、感極まったのだろう。
私が生まれたとき、ちょうど還暦を迎えた祖父だった。ちょうど、今の私の年齢、37歳のとき、大東亜戦争が敗戦を迎えた計算になる。戦争中はフィリピンのなんとかという島にいたらしい。
敗戦後、みんなが忙しくしているときも飄々としていて、浮世離れしている感じの人だったらしい。当時は珍しい、カメラ好きだったそうだ。その影響で私の父もカメラが好きで、おかげで、私の幼少のころの写真はふんだんにあるし、当時は珍しい8mmビデオで撮影された貴重な画像もたくさんある。私はあまりカメラ好きにはならなかったのだが。
なにはともあれ、天寿を全うした祖父の冥福を祈りたい。

大学生になったころ(5)

ある日、ひとりで部屋にいたとき、電話が鳴った。「もしもし」と出ると、聞こえてきたのはなんと女性の声だ。「もしもし、danranさんのお宅でしょうか」
全く女っ気のない私に、女性から電話? 期待と疑問とが入り混じりつつ、おそるおそる答えた。「はい、そうですけど」
「Sといいますけど、兄はいますか?」
Sとは、先日紹介した大学の6年先輩のSさんのこと。なんだ、Sさんの妹さんか。「あー、いないですよ」
すると、ちょっと間をおいて、彼女が言った。「ひょっとして、お兄ちゃん?・・・」
「その声は、お兄ちゃんでしょ? なにdanranさんのふりしてんの。そんなの分かるに決まってるじゃないの」
いえ、誤解です。私は正真正銘danranです。
「今、うちが大変なの分かってるでしょ。そんなところ遊んでるヒマないでしょ」
だから、僕はdanranですって。
「お兄ちゃんが働かないから、あたしがどれだけ大変か分かってるでしょ。とにかくうちに帰ってきてよ」
全然事情がわからないんですけど・・・
なんとか僕がdanranだということを分かってもらって、電話を切った。そして、その日かその次の日か、いつか忘れたが、当のSさん本人が私の下宿にきたとき、私はすぐさま言った。
「妹さんから電話ありましたよ。今、うちが大変だとか何とか言ってて、なんか早く帰ってきてほしいみたいに言ってましたよ」
「そうか、まあええねん。気にせんといて」
人に干渉するのはあまり好きでない私は言った。「そうですかー」。そしていつものようにSさんが居座るのに任せた。「腹へったな。ローソンで焼きそば弁当買ってきてくれへんか」ファミコンしながら、Sさんが言う。
そこへ、電話がかかってきた。取ってみると案の定、Sさんの妹さんだった。「兄はいますか」
Sさんをみると、首と手を振って、いないことにしてくれ、というサインを私に送ってきていた。「今日もきてないですね」
しかし彼女は断固言った。「そこに兄がいることは分かってるんです。兄に伝えてください。もう親子の縁を切ると母が言っていると。もううちに帰ってこなくていいと伝えてください。兄の荷物を送りたいので、danranさんのうちに荷物を送らせてもらいますね・・・ガチャッ」
そんなの困るー。すぐさまSさんに伝えた。「勘当するって言ってますよ。もう帰ってこなくていいって」
「何っ??」さすがにやばいと思ったのだろう。帰りの電車賃を借りて、Sさんはすぐ帰っていった。
それから後のことはよく覚えていない。もうSさんがうちに来なかったのかどうかも定かではない。確かなのは、その一月後くらいにSさんは大学を中退し、働き始めたということ。少し寂しく思った、大学2年のdanranでした。

小学生になる息子に伝える言葉

大学時代のことを書くのに少し飽きたから、今日は別の話を。
息子が次の4月に小学校に入学する。そのとき、息子になぜ勉強するのか? を父として伝えたいと思っている。
なんて伝えよう? 3月末までまだ時間はあるが、頭の中でこねくりまわしていても進まない。とりあえず、草案を作ろう。こんな感じかな。
「勉強は、人生を豊かにしてくれる。何かを知る、何かが分かる、ということはとても楽しい。だから楽しんで勉強してほしい。
いつまでも勉強するつもりでいてほしい。お父さんもまだまだ勉強中だし、一生勉強が終わることはない。
テストの点をよくするのが楽しかったらそれでもいい。テストなんてどうでもいい、興味のある本をたくさん読みたいというんだったら、それでもいい。とにかく楽しんで勉強してほしい。
新しいことを知るということは全て勉強だ。国語・算数・理科・社会だけが勉強じゃないんだ。いちばん簡単で楽しい勉強法は本を読むことだと思う。だから、たくさん本を読んで、たっぷり楽しんでほしい。」
うーん、難しい。長すぎるし、ポイントが分かりにくい。修正。
「勉強は、人生を豊かにしてくれる。何かを知る、何かが分かる、ということはとても楽しい。だから楽しんで勉強してほしい。
勉強とは、新しいことを知るということだ。いちばん簡単で楽しい勉強法は本を読むことだと思う。だから、たくさん本を読んで、たっぷり楽しんでほしい。」
これくらいがいいかな。ま、あせることはない。もっといいのがないか、考えてみよう。

大学生になったころ(4)

私のいた大学は、三重県賢島から、船で1時間ほど行ったところにある無人島に保養施設をもっていた。通称「海の家」。
毎年夏、7月の終盤にクラブで行くのが恒例で、大学を出るまで7年間、毎年通い続けることになった。その1回目、1年生のときの話。
近鉄特急で賢島駅に到着した我々は、すぐ、夜の宴会に備え、調達に走った。先輩たちに呼ばれ、酒のコーナーに行く。異様にでかいウイスキーのボトルがあった。先輩はこれを買うという。その酒こそ、私がきっと一生わすれないであろう酒。サントリーレッド。
調達を終え、船に乗り込み、海の家へ向かう。真珠の養殖の網が、いたるところ張られる英虞湾を進む。太平洋なのにとてもおだやか。そして、実にいい天気だ。途中1回、船を乗り換え、しばらく行くと、先輩が指差して教えてくれた。「あれが海の家だ」
確かに小さな島だった。堤防から小さな桟橋が伸びており、その向こうに狭い庭と、小さな小屋が見える。それが海の家。バックには木々の茂った丘が控えていた。
この平和なひとときが過ぎ去ったあと、あのような悲惨な夜が待っていようとは露ほどにも思わなかった。
水着に着替え、海へ行くもの、座敷でだらだらしゃべるもの、いろんなグループに分かれるが、私はやっぱり麻雀グループ。ついて草々から晩飯までずっと麻雀して過ごす。夕飯を終え、風呂に入ったら、さあ宴会だ。
家に帰る必要は無い。飲みつぶれたらそのままそこで眠ればいい。そして僕らにはサントリーレッドがあった。条件は整った。整いすぎていた。
みんなわいわいしゃべりながらビールを飲む。日本酒もある。焼酎もある。いくらでもある。まだ、サントリーレッドには到達しない宴たけなわ。M先輩が叫ぶ。「よっしゃ、一気大会始めよか」
飲み終わったら、グラスを逆さにして頭の上に置くこと。置くのが早いほうが勝ちだ。
まずはかわいくビールの一気飲みが始まる。1,2年生が全員起立で勝負。勝ったやつから抜けていき、負けたやつが残るというルール。人数がそこそこいるので結構つらい。私はかなり遅いほうで、10数杯飲んだ。
きつー・・・。そう思っているところに先輩が畳み掛ける。「よっしゃ、今度はサントリーレッドで一気や」
なにっ! ウィスキーを一気? 冗談止めてくれ、そんなん飲めるわけが無い。私は言った。「ちょっとー、勘弁してくださいよー」
そんな私の弱気の声を聞いて、「お前が飲まへんのやったら、俺が飲んだるわ」と言ったやつがいた。彼の名はT。私の同期で、愛媛出身のやつだ。相当彼も酔っていたんだろう。
しかし私も相当酔っていた。「何? なんでお前にそんなこと言われなあかんねん!」 こうなったらお互い後には引けない。突如、彼と私の、サントリーレッド一気のみ大会が始まった。
勝負! よーい、ドン・・・・・・・コチッ、コチッ(頭の上にグラスをおく音)・・・・「勝ち、T」
負けた・・・くそー、もう一回勝負や!
よーい、ドン!・・・・・・コチッ、コチッ・・・・・「勝ち、T」
また負けた。くそー。
熱くなっていくのを止められなかった。異常に盛り上がった場は、「俺も俺も」というおろかな参加者を生み、大人数でのサントリーレッド一気のみ大会へと進展していった。
しかし私は負け続けた。何回やっても最下位なのであった。そして、7回目か8回目だろうか、ついに最下位を脱出することが出来た。
「やった・・・」
そのあとのことは覚えていない。気付いたとき、私はトランクス一枚しか身にまとわず、畳の上に突っ伏していた。真っ暗な宇宙の中を漂流しているように、体が宙を回り続けていた。確かに無数の星が見えた。天地の区別もなかった。そして頭も胸もお腹も全てが気持ち悪かった。意識を失うことを祈った。
しばらくして少し症状がましになると、私のそばにもうひとり倒れているものがいるのに気付いた。Tであった。彼もトランクス一枚であった。やつも同じ苦痛を味わっているのだろうか。
昼になり、やっと体を起こすことが出来るまで体調が回復した私たち二人は、昨日あれから何があったのか、周りのみんなに尋ねてまわった。
私の方はかわいかった。一気のみが終わった後、ばたんと横になったかと思うと、突然起き上がり、「俺は絶対負けへん!」と叫んで、またぶっ倒れたそうだ。その後、活火山のようにげ○を吐きまくり、着ていたものがどろどろになったので、服を脱がせ、パンツ一丁にして寝かせておいたんだそうな。
一方、Tの方は悲惨だった。自分のしたことを知った彼は言った。「俺、もうクラブやめるわ」
彼が何をしたか、書くべきか書かざるべきか・・・もちろん書いてしまうのだが、彼はまず失禁したんだそうな。彼が寝ている横で、女の子たちがトランプをしていた。するとひとりの女の子が叫んだ。なんか、濡れてるー。そう。彼が、失禁していたのだ。
そして、彼はとんでもないことを言ってしまったのだ。(このあとは、削除します。読んでしまった方、忘れてください。読んでない方、ごめんなさい)

大学生になったころ(3)

大学時代、一緒にいたやつで、私に最も影響を与えたやつ、それがKBであった。同じ建築工学科の同級生だ。
気持ち悪いくらいいつも一緒にいた。一緒の布団で寝たことが何度もあった。彼は私に抱きついて来るのであった。キスもされた。私が初めてキスした相手は、実は男だ。KBだ。悪夢だ。
私がタバコを吸うようになったもの、彼のせいだ。大学一年の秋頃、彼が私の下宿にやってきては、タバコを勧めた。私はタバコだけは嫌だったので、断固断った。それでも彼は毎日きてはタバコを勧めた。やがて私は、「じゃ、一本だけな」と折れた。ゴホゴホッとむせながら、セブンスターの煙を肺に流し込んだ。
何日か、そんな日が続いた。すると、ある日突然、パタッと彼が私の下宿に来なくなった。寂しくなった。何が寂しいんだろう? 彼がうちに来ないからか? それとも・・・ひょっとして、タバコが無いから・・・?
首をかしげながら、私はタバコの自動販売機に向かい、彼が吸っているのと同じセブンスターを一箱買った。まずかった。しかし、タバコを吸っていると、口元が寂しくなる。こんなまずいもの、と思いながらも、次の一本がほしくなる。結局、彼が勧めた一本のタバコは、30歳になってタバコをやめるまでに吸った本数、約12万本(11年間、一日30本として)に変身した。
しかし私は彼が好きであった。猪突猛進型の私に対し、「人生はひまつぶし」を公言し、ひょうひょうと進む彼の姿は私には魅力的だった。
彼の下宿にもよく行った。1年生の夏、石橋の彼の下宿で、一緒に試験のカンペを作りながら、池田聡のファーストアルバム『Missing』が、一晩中エンドレスでリピートされていたのは忘れられない。(当時はテープだった)
1年生を終える頃、彼は小野原に引っ越したのだが、私も2年生を終える頃、彼を追うように小野原に引っ越した。その後、卒業してからしばらくまで、彼との付き合いはずっと続いた。
正直、彼の存在が私の支えであった期間もある。KB氏には、この場を代えてお礼をいいたいと思う。(思いもかけぬ方向に話が進んでしまった)
最後に、大学一年のときの、彼とのちょっと面白いエピソードを。
ある日彼が私の下宿にやってきた。これから梅田でバイトで、帰ったらうちによるという。私は少し体調が悪かったのだが、分かったと答えた。その後私の体調は本格的に悪くなり、気付くと熱が38度5分も出ていた。
あいつが家へきたら、食い物飲み物を買ってきてもらおう。そう思い、布団やら毛布やら掛けまくって寝て待った。そこへ彼がやってきた。助かった。おい、KB、俺熱があんねん。ちょっと買い物行ってきてくれへんか。
ところが彼の調子がおかしい。部屋に入って寝転んだまま動かない。熱を測ってみるとなんと39度5分。
こりゃやばい、と彼を私が寝ていた布団に入れ、コンビニに行って食料を調達し、薬を飲ませ、介抱させられるはめになった。布団には彼が寝ているので、仕方なく、私はコタツで寝ることにしたという。

大学生になったころ(2)

当時、麻雀マンガが隆盛を誇っていた。
それは片山まさゆきの功績が大きい。『ぎゅわんぶらあ自己中心派』をヤンマガに連載させ、絶大な支持を得ていた漫画家だ。
彼の最高傑作はなんと言っても『スーパーヅガン』。悩める豊臣君の姿は、全ての麻雀フリークを爆笑の渦に巻き込んだ。
月刊の麻雀マンガ雑誌もたくさんあった。『近代麻雀』『近代麻雀ゴールド』『Aクラス麻雀』『麻雀ゴラク』などなど、いろんなのがコンビニの棚を賑わしていた。
(ちなみに、個人的に好きだった作品をあげると、かわぐちかいじの『はっぽうやぶれ』、嶺岸○○の『あぶれもん』、著者失念だが『獏』。時代が下がって、『麻雀蜃気楼』、そして麻雀マンガの金字塔と言える『アカギ』である。有名な『哭きの竜』はそれほど好きではなかった)
なんでいきなりこんなことを書いたかというと、もちろん私が麻雀が大好きだったから。思いっきり麻雀を打ちたい! 大学生になったとき、心ひそかにそう思っていたのは確かだ。
ダンス部に入ったと昨日書いたが、定着してしまった大きな理由は、麻雀好きがたくさんいたからだ。
特に、大先輩諸氏がすごかった。私の4年先輩のMさん(5回生)、6年先輩のSさん(7回生)。この二人が強烈な引力で私をひきつけた。(あと、7年先輩のKさんという人もいるのだが、この人のことはまた機会があれば)
ちなみに二人の学年を聞いていぶかしげられるかもしれない。解説しておくとMさんは歯学部なので、カリキュラムは6年。決しておかしくは無いのだが、この時点で1年留年していた。
Sさんは基礎工学部で、この時点で、3留(だったか?)。この二人といつも一緒にいることとなった私が、その2年後、留年の憂き目を見たのは、至極当然であったかもしれない。
他にもクラブには麻雀好きがたくさんいたので、大学のすぐそばという立地条件に恵まれた私の下宿が、雀荘と化すのに、さして時間はかからなかった。
とにかくめちゃくちゃ麻雀を打った。部屋の鍵をかけることなど帰省の時を除いて無かったので、ちょっと外出して帰ってきたら誰かが麻雀を打っていたとか、寝てて起きたら、いつのまにか人が上がりこんできて麻雀打ってたりとか、そんなことが日常茶飯事だった。
その下宿にいた2年間に一体どれくらい打っただろう。2年目の夏が一番すごかった。当時はエアコンも無かったから、汗だらだらかいて、タバコバカバカ吸いながら、ただひたすら麻雀を打った。
一ヶ月で、私の部屋で打った回数が、半チャン500回を超え、私が入った半チャンが確か315回。このとき、64時間連続で麻雀を打ち続けるという大記録を打ち立てた。そのあと20時間近く爆睡し、起きた後、また22時間打ち続けたはず。「このまま死んでもいい」と思った。今にして思えば、キチガイじみているが。
このころ散々打ちまくったせいか、今は全く麻雀を打ちたいと思わない。帰省したとき、時々打つくらいだ。
なお、2年生になったころから、半チャンごとの記録を残そうと、麻雀ノートを取り始めたのだが、このノートはダンス部の麻雀好き部員に代々引き継がれていくこととなった。数年前、クラブに顔を出したとき、その麻雀ノートがまだクラブで引き継がれていると聞いて驚くと同時に、うれしかった。数冊は紛失したらしいが。
☆おまけ:Sさんのエピソード☆
Sさんは、時々、お金を持たずに私の下宿にやってきた。麻雀を打つが、負けてもお金を持っていないので払えない。借りだ。
Sさんはタバコを吸うのだが、すぐになくなる。「悪いけど、セブンスターワンカートン買ってきてくれへんか」お金を持っていないので借りだ。
Sさんは、一日一度、おなかがすくようだ。そんな時、「腹へった。悪いけど、ローソン行って、焼きそば弁当買ってきてくれへんか」もちろんお金は持っていないので借りだ。Sさんが口にするのは、一日一度の焼きそば弁当だけだ。
私の部屋にはファミコンがあった。Sさんはファミコンが大好きだった。私が学校から帰ってきたらファミコンをしている。麻雀を打っている間、ファミコンをしている。私が寝るとき、ファミコンをしている。起きたときもファミコンをしていて、出かけるときも帰ってきたときもファミコンをしている。いつ寝てたんだろうか?
当時、『ドラゴンクエストⅣ』がはやっており、私の下宿にあった。Sさんはそれをいつもやっていた。ある日、「おい、ちょっと見てみ」というので見てみると、ちょうど最後の敵と戦うところだった。こちらのパーティーは勇者と、その仲間3人。みなレベル99の最高値だ。
闘いが始まって驚いた。なんと最後の最強の敵を一撃でやっつけたのだ。唖然としている私にSさんは言った。「すごいやろ。こいつらはな、まず戦士でレベル99にして、そのあと転職して、魔法使いでレベル99にして、また転職して、僧侶で・・・、と繰り返して、最後、遊び人(だったかな?)でレベル99にしたんや。これ以上最強のパーティーは絶対あれへん」
そして、帰るときSさんは言う。「ぼちぼち帰るわ。悪いけど帰りの電車賃、貸してくれへんか」
ちなみに、Sさんは、最強の男と呼ばれていた。麻雀で負けても金を払わないし、さんざんお金を借りまくって、返さないで許されるという、恵まれた性格の人だった。

大学生になったころ

私が大学生になったのは、1987年4月。18歳のとき。
高校卒業後、すぐ入院した私は、大学への入学手続き、下宿の確保等全てを父に任せた(合格を知ったのは病院のベットの上でだ)。なので、入学式で大阪に出てくるまで、住むところがどんなところか全く知らなかった。
下宿へついてみるとそこは大学のすぐそばだった。キッチン付4畳一間。トイレ付。洗濯は近くのコインランドリーへ。風呂も近くの銭湯へ。その部屋で初めて炊いたご飯がすごくうまかったのを覚えている。おかず無しで、ご飯だけで二合食べた。
ああ、こう書いただけですごい懐かしくなってくる。
高校時代の友人で大阪にいるのは二人だけ。そんなに会えるわけでもない。友達を作ろうと、クラブを探しに出かけた。ちょうど新歓オリエンテーションの頃だ。
小・中・高とサッカーをやってたので、やっぱりサッカー部かな、とサッカー部を探した。が、見つからない。まあ、いいか、また今度探そう、と引き返したのが今思えば運命だったのか。
帰る途中で捕まった。大学構内から出る直前だ。「君、新入生?」男女ペアの二人組みに声をかけられた。
「はあ・・・」目つきは鋭いが、気の弱い私は、二人に言われるがまま、部屋に連れて行かれた。イ号館という少し小高いところにある建物の、薄暗い部屋だった。
「君、ダンス部入らない?」
・・・
は? 何? ダンス????
・・・
聞いたときは耳を疑った。ダンスだって? あの男と女が手をつないでニコニコしながら、ズンチャッチャ、ズンチャッチャってするやつ? 俺が???
似合うわけが無い。いやだ。と思ったのだが、気付けば断りきれず入部を決めていた。そのあと、駅近くの(今でもある)餃子の王将に連れて行かれて、焼きそばをおごってもらい、おごってもらったらしょうがないな、と、なにがしょうがないのかよくわからない理屈で、決めてしまったのだ。そのあとサッカー部を探しになんて、一度も行かなかった。
私を勧誘してくれた二人連れのうちの男のほうは、実は新入生だったとのこと。このクラブに入ります、と決めて勧誘の手伝いをしていたそうだが、一週間後くらいにクラブをやめたんだそうだ。なんだったんだ。